2010年3月アーカイブ
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムに「美しき挑発 レンピッカ展」を
見に行ってきた。
昨晩、新たに私の作品展示させて欲しいとの依頼があったお店に、その
打ち合わせのついでに美味いジンをご馳走になり、話題が盛り上がって
タマラ・ド・レンピッカの話になった。
レンピッカといえばアール・デコの流れに乗り、フランスでは
Les Annees Folles(レ・ザネ・フォール : 狂気の時代)と呼ばれる、
現代芸術への礎を築いた1920〜1930年の中でも、特に特徴的で重要な
芸術家である。
ピカソやコクトー、シャネル、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドと
いった芸術や美や知の巨人達が活躍し、毎晩のように大騒ぎしていた
ハイテンション極まりない時代の女性である。
その画風は、流体的で肉感的な女性像を描くだけでなく、非常に戦略的な
色の構成力を誇り、綿密で幾何学的人物構成を球体面のように美しく描く。
彼女自身の美貌とファッションセンス、当時の女性としては類い希なる
行動力を併せ持ったことから、女性誌などにもよく取り上げられたりする
のだが、女性の芸術家によく見られる、彼女の作品のフォロワーが存在し
ない。ジョルジア・オキーフやフリーダ・カーロなどと同じく、唯我独尊
というかオンリーワンの芸術家でもある。
写真家と一緒にセルフ・プロデュースしたセルフ・ポートレートは当時の
写真技術から考えても異常なほど完成度が高く、また、美しい。
モノクロームの写真から色味を感じてしまうほどである。
モード系のファッションカメラマンや編集者なら、一度はこんな写真を
撮ってみたいのではないか。
自分の娘であるキゼットを描いた肖像画が特に秀逸である。
強くお薦めしたい「美しき挑発 レンピッカ展」である。
下北沢にて
昨夜はone-s-one II~唯一無二のソロアーティストによる競演~』
と銘打たれた中野テルヲ氏と横川理彦氏のライブにお邪魔した。
生憎の寒さと降りしきる雨の中、平日というのに客席は満杯。
そして、著名なゲストもチラホラ。
横川氏のパソもダウンすることなく、また、中野氏のセンサーも
冴えまくり、それぞれソロでの演奏パートは程良いところで終演。
このお二人の組み合わせで私が最初から期待していたのが、ソロ
の部分よりも実は競演の部分。
中野氏の演奏が終わると横川氏が合流。中野氏が出すベーストラ
ックに引っ掻くような横川氏のギターと、半年ぶりに聴くヴァイ
オリンの演奏。
ニューウェーブを原体験通過してきた身にとっては、またとない
美味なる即興、そこに中野氏のヴォーカルも絡み、粒のハッキリ
とした果物とキリッとしまったジンがベースのカクテルの美味さ
をを感じさせる名演。
当日のリハで初めて合わせただけとは思えない珠玉の演奏となった。
演奏終了後、アンコールを求めるオーディエンスの拍手も、用意した
プログラムは全て終了ということで残念がる溜息が漏れるが、まぁ、
それは仕方ない。お二人の楽屋に挨拶に行ったついでに、この二人での
コラボレーションを、テル彦をもう一度聴きたいと、個人的にお願い。
お二人とも気持ちよく疲労感と安心感があったようで、私の無理な
お願いも叶うかもしれない。仕掛け人の中井さんにもお願いしたし。
次もあるかもね。
中野氏は6月20日(日)に、高円寺HIGHでのワンマンが控えている。
是非期待したい。
それはそうと4-D mode1の方も、もうすぐ決まりそうなので、そっに
も神経使わなあかんな。少し先になるけどね。
下北沢にて
アカデミー賞を受賞した「THE HURT LOCKER(ハートロッカー)」を昨晩観た。
つい最近にも書いたようにこの作品は是非劇場で観たいと思い、レイトショーを
観に行った。そして私は完全に嵌ってしまった。
ツボに入ったのである。上映される131分間、最初から最後まで観ていて緊張感
に包まれた。凄い映画である。
舞台は2004年。今なお続くイラク戦争。アメリカ陸軍に属する爆発物処理班3人
の中隊が主人公なのだが,10分も観ているとドキュメンタリーかと思うほど、異常
なまでのリアリティと緊張感を味わうことになる。
私達にとって、非日常な戦争という状態こそが日常になってしまった者達の、その
現場でしか体感することが出来ない「命」を賭した(ほんとにこの表現そのまま、
脚色無し)尋常ではない「日常」38日間を淡々と追いかける。
ハードボイルドであり、ストイックであり、プロフェッショナルであり、また冒険
談でもある。
そしてその非日常的日常(スターリンの歌詞であったような…)がそれぞれを静かに
蝕んでいく人間の弱さは、リハビリテーション不可能な人の危うさを生み付ける。
兎に角、私の今年度No.1の映画は既にこの3月中旬において決定してしまった。
そう思える程凄い映画である。
ただ、見終わって思ったのは、この映画の何処にアカデミー賞を獲得する要素が
あったのかさっぱり判らない。雰囲気はインディーズ。金もかかっていない。
アメリカの好きな家族愛も出てこなければ、教訓めいたメッセージもさほど強くな
い。もちろんハッピーエンドでも無いのにだ。でも凄い映画である。
既にご存じのように、監督のキャスリン・ビグローはその名の通り女性である。
女性がこんな作品を撮るとは恐れ入った。爆発シーンの映像は素晴らしいが、決し
て女性に受けることはない作品だし、大半の女性が興味を抱くこともない映画であ
る。ある意味異常なまでに男性的なハードボイルドなので、今でも監督が女性であ
るというのがしっくりこない。私などの想像を遙かに超えたイマジネーションが
キャスリン・ビグローには働くのだろう。凄い女性である。
ハリウッドが本気を出したらこうなるのだ、ということを思い知らされる作品でも
ある。やはり奥が深い。
あのラストシーンを観るために、もう一度映画館へ脚を運んでも良いと思った。
凄い映画である。
下北沢にて
一昨日、懇意にしているBarのマスターからメールが届いた。
ナンと、「アラスカで採取された3000年前の氷塊」の一部が
手に入ったということだった。
それで昨晩仕事で遅くなり、オマケに仕事上の面倒な話満載の
飲みに誘われ、味がわからないまま黒霧島という焼酎を呑んで
しまった。男三人であーだこーだと五月蠅く目黒の居酒屋で喋って
いたので、何を喰ったかも覚えていないままお開きになった帰り、
一人でふらりと「アラスカで採取された3000年前の氷」を飲みに行った。
まぁ、口直しといったところか。
平日であったためか客はまばら。二十歳そこそこの若輩が、必死に
女を口説いているのを尻目に、マスターからレクチャーを受け、
Maker's Markというバーボンのロックでその氷をいただいた。
500万年前の南極の氷に較べると色の白さは薄い。つまり、気泡が
少ないのだ。度数の強い酒を垂らしてもプチパチ音はせず、時折、
ピシッとかキシッとか、割れる音がするくらいなのだが、酒そのものの
味はかな
りマイルドになる。舌に刺さるような度数の酒がトロリと
呑みやすくなってしまう。氷の目は粗く塊となった水質の成分がやはり
違うのが判る。同じ酒を30年間飲み続けているから判ることかもしれ
ないが、こういった酒の楽しみ方もあるということだ。
アラスカにしろ南極にしろ私は一生行くことはないと断言できる。
にもかかわらず、東京のど真ん中でそれを味わう事が出来るというのは
僥倖というほかない。運がよいのだと思う。
またしても悠久の時を、ひと舐めづつ舌で味わうという、またとない
至福の時間を持てたということに感謝して、アイステクノを聴きながら、
明日の夜にまた呑みに行くのだろう。
下北沢にて
[「共通項としての敵」という概念を持たない国は、個人の精神構造に多大な
負荷をかける。]
と昨日書いたが、人類の本能として仮想敵を作ることは、集団を維持していく
ことにとって非常に重要なファクターとなっている。
近隣諸国を見てみても判るとおり、中国・韓国・北朝鮮・アジア諸国などは
顕著にその傾向が露骨に出ている。もちろんその対象となっているのはこの
「日本」であるわけだが、先般行われたトヨタの吊し上げなども、アメリカの
敵対意識が如実に、しかも赤裸々に出ていて面白い。一企業の出来事ではな
く、これは日本という国に対する嫉妬と妬みを内包した、アメリカ国民向けの
大仰な演出である。そういった観点から見てみると、日本の政治というのは戦
略がなく、バカでも簡単に出来る仕事なのだとよくわかる。
マーケティングを囓ったものなら判るのであるが、マーケティングにおいて
重要なのは情報の分析ではなく、その先にある皮算用をはじく事であり、それ
には大きなリスクを伴うことから、そのリスクを軽減し成功するための確率を
上げるためにマーケティングという考え方が存在する。
いわば、リスク・マネージメントと呼ばれるモノに他ならない。
話は戻るが、ヨーロッパでも対ロシアを標榜する国は多く、トルコVSギリ
シャ、イギリスVSフランス、中東ではもっと複雑に産油国として欧米拠りの
政策を摂る国々と自立主権を望んでいる各民族の中で、数百年にわたって啀み
合っているのは、半ば常識である。
そのような緊張感が国という概念や政治というものの本質であり、そこに経済
が絡んでくると更にややこしく、複雑怪奇な、縺れた麻縄のような状態になっ
てお互いを支えてしまう。それが私達が感じることの出来る「世界」という概
念ではないかと考える。
何処の国や地域の出身であろうと、個人として相対した時は、個の特有な
部分を見ればお互いに分かり合えるのが人間であり、それが血や民族、宗教、
歴史などを核とした集団になると個は見えず攻撃的になるばかりである。
私達は2000年前のアリストテレスやアルキメデスの時代から、何ら成長は
していないのであって、2000年前の哲学やら思想やらを超える概念は誰も
持ちあわせていないように思う。寂しい話である。テクノロジーだけは進歩
しているのにね。
ケーブルTVの音楽番組を見ていると、この時期やたらと「卒業」だ「逢いた
い」だの「いつまでも待ってる」などと歯が浮くようなことをほざく歌が
百花繚乱している。
方や別に耳を向けると、「元気を出せ」「俺が側にいる」「お前だけだ」など
と説教クサイ能書きをぬかす連中が徒党を組んでパラパラ紛いの下手なタコ踊り
を踊っていたりする。
いくら商売のためとはいえ、そういった事を垂れ流せるこの国は、ぬるく、柔
らかく、曖昧な霧の中に漂っているのではないか、と、ふと思う。
強く清廉で、思慮深く潔い、そして弾力があり個として屹立した人間に私は
なりたいと、今でも思っている。いや、私などよりも若い人達には少しでも
そうあって欲しいと切望する。そうすれば、不用意に「敵」など作る必要も
ないのだから。
下北沢にて
十年振りにフランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」を観た。
新世紀が始まった年に監督自身の再編集版である特別完全版を観て以来で
ある。
79年にリアルタイムで映画館上映されたおり、今ひとつ意味が判らなかった。
何故その時に観に行ったかというと、まだ十代だった私は、パンクやニュー
ウェーヴとは別に、その時入れ込んでいたドアーズ(Doors)というバンドの曲
「The End」が主題曲で使われていると言うことを知り、また、ドアーズの
ヴォーカリストであるジム・モリスンが大学の映画部でコッポラ監督と同期で
あったと知っていたため、ソソられて観に行ったのである。
アメリカが敗残したベトナム戦争が舞台であり、その後のアメリカ・ハリ
ウッド制作のベトナム総括映画のベンチマークとなった非常に重要な位置
付けの作品である。ケーブルテレビでほぼ同時期にかかった「プラトーン」
や、「ハンバーガー・ヒル」、「ディア・ハンター」等、ベトナム戦争を
総括する名作は多いが、改めて観てみると、その映画としての質(クオリティ)
に脱帽せざるを得ない。
現代の映画でCGに依存する作品が多い中、当時一切そういったギミック無し
に制作されたこの映画の凄まじさは、筆舌に尽くしがたいインパクトを持つ。
当たり前である。
映画が娯楽ではなく、本気で偏執狂的芸術の極致をダイナミックに追求した
のであるから、当然といえば当然か。
マーティン・シーン演じるウィラード大尉の回想録的ストーリーであるが、
彼が対峙するカーツ大佐(マーロン・ブランド)のレーゾン・デートルこそが
この映画のテーマであり核である。
30年前に劇場で観た時よりも、10年前に特別完全版を観て感動した時よりも、
今回観た事によって、ようやくコッポラ監督が何を伝え観せようとしていたの
かが理解できた。
観ていない方がいるなら、巷で話題の「アバター」より、こちらをお薦めする。
人は極限に追い込まれたとき、その現実から逃れるために狂うか、或いは受け
入れる事によって一種の信仰(宗教という意味ではない)に傾く。
何を隠そう私も社会の中でそういった経験を持つ一人である。
概ね、正常でいられる事はない。
まぁ、そもそも正常であるという概念そのものが、何を基準にしているのか
甚だ怪しいモノであるのだが…。
今、私達の世の中では、メンタルな部分でダメージを受けている人達が大勢
いる。学校でも職場でも日常でも家庭でも。戦争という概念がこの国の中で
既に認知の外にあるという事実のみが、平和であるということとイコールで
あるということではないのだから。
「共通項としての敵」という概念を持たない国は、個人の精神構造に多大な
負荷をかける。オッと、こんな事を書くと長くなりそうなので次回に回そう。
現代版「地獄の黙示録」とも言うべき映画「ハートロッカー」がアカデミー賞
を獲った。先述した「アバター」と何かと比較されていたが、私は映画にCG
を求めているわけでもないし3D映像を求めているワケでもないので「ハート
ロッカー」は是非見に行きたい作品である。
下北沢にて
ヒース・レジャーの遺作である。
監督は言わずとしれたテリー・ギリアム。
強者である。
テリー・ギリアムといえば「未来世紀ブラジル」「バロン」「12モンキーズ」
「ラスベガスをやっつけろ」等の作品が著名な、一風変わった作風の映像を撮る。
「一風変わった作風の映像」というのは凝りに凝った映像ということでもあり、
アメリカ人とは思えない、ヨーロッパ的陰鬱の世界観を見事に再現するという
意味において一風変わっているのだ。
私は85年に公開された「未来世紀ブラジル」でやられたクチであるが、何せ寡作
な映画監督であり、また、運に見放された人物でもある。
メインキャストであったヒース・レジャーが、撮影半ばにして他界したことも、
この監督らしい運命を感じるのは私だけではないだろう。
ということで、制作が頓挫しかけたところへヒースの友人や彼をリスペクトして
いる俳優達(ジョニー・デップ、コリン・ファレル、ジュード・ロウ)が上手く作
品をフォローして、映画としては一級品のファンタジーに仕上がった。
面白く不思議で、また、クスッと笑えて、ほんのり泣ける、良い作品だ。
そして何よりもキャラクターがけれん味たっぷりで美術と映像が美しい。
以前ブラザーズ・クエイ「ピアノチューナー・オブ・アースクエイク」の事を書
いたとき、テリー・ギリアムが作品のプロデューサーをしていたことを書いたが、
やはり何処か通じ合う美学を存分に感じさせる。
「クローンは故郷をめざす(The Clone Returns to the Homeland)」で描かれた
のは「命のコピーを造る事による生命の引き継ぎ=永遠の命」とはなんぞや?と
いうことであったが、「Dr.パルナサスの鏡」で語られていることは、永久の命を
与えられたDr.パルナサスは一人の女性を愛し、その女性にうり二つの自分の娘を
溺愛し、その娘の幸福だけを願っているという図式なのだが、どこか通底している
流れが見えるような気がしている。
Dr.パルナサスは一種のパラノイア(偏執狂)であるが、男性の殆どがそういった習性
を生まれながらにして持ちあわせている。
それを内包したまま飼い慣らすことが出来ると大人として社会的に成り立つが、
調教できないまま成長すると皆さんもご存じのイタイ人達になってしまう。
そういった、男性から観ると鬱になってしまうパラノイアを笑い飛ばす役割、
つまり道化師の役回りがヒースの役所でありヘルプアクターたちの役回りだ。
道化師は地位と名誉と金を好む。
これ以上書くと、観ていない人に悪いのでこの辺にするが、タイムリーに
以上の2本を観ることが出来たのは僥倖というほかない。
下北沢にて