マーキング
少し前にグラフィティアーティストBanksyについて書きましたが、
朝のワイドショーではイタリアの大聖堂に日本人が落書きしたことが
ネットで発覚しヘンな盛り上がり方をしている。
何処ぞの女子短大生、●都学院大学生、某高校の強豪野球部監督…等。
謹慎食らって反省文書かされたり、停学になったり、職場を解雇され
たりと。
一方では「日本人の恥さらしとして当然の報いだ」という意見もあれば、
方や「たかが落書きで何を大騒ぎしているのか?やりすぎではないか」
という同情論も聞く。
イタリアだけではない、世界中の日本中の名所旧跡の類には、必ずと
いっていいほど、落書きが大昔から施されている。
私が注目したいのは、そういった罰則の処置云々ではなく、何故そこに
自分が何者であるか馬鹿正直に明記したのか、という一点にしか興味が
湧かない。
心理を察するにその人達は、自分達或いは自己の存在確認のため、
犬のマーキング的行為に限りなく近い行動に出たのではないかと考える。
その行為(落書き)は、連綿と永続する歴史に自己の痕跡を残し、
世界の一員または一部であることを、自身に認識させる自己満足の所業
に他ならないのではないか。
眺めのよい場所に恋人達が南京錠を引っかけていくのも似たようなもの。
旅行の中でドーパミンが分泌されていたとはいえ、ヒトの生き物として
の本能的行動に思えてならない。悪意がないのである。
決して褒められた行為ではないにしても、以前に憤慨したグラフィティ
アーティスト気取りに較べれば、自己の所在をしっかり明示している
間抜け加減が微笑ましい。
まさかこんなことになるなんて露程も想いをはせることはなかったで
しょうね。
情報を持たない多くの人達が、自己の表現行為を知らずに一生を終えて
いくのであるから、旅の恥は掻き捨てとばかりにサイン(落書き)をし
てまわるというのもまぁ、安っぽいといえば安っぽい。
が、しかし、
個人の情報を見境なく残していくのは、現代では危険が伴うのですよ。
原始・古代の人達の落書きは歴史的文化遺産なのにね〜。
下北沢にて