見たいヒト、見られたいヒト
常に誰かに見られている。個々の情報を売り買いされている。
そういった世の中になってしまったというのは事実であって、
何処ぞで事件があり、それを辿る手管として監視カメラ映像や
携帯電話の履歴や発信地などを手繰っていくというのは、先進
諸国ではベーシックな安全獲得の方法論として確立している。
そのことの善し悪し・好き嫌いに関わらず、それだけ私達が
関わりを持つ世界が、人の精神性を複雑に且つ矮小なものへと
追い込んでいるのではないか…などと最近考える。
しかし、見られている、情報を売り買いされている人達がいる
反面、一生見向きもされず、情報も持たず、我々にはその存在
さえ知られることなく朽ちていく人達も居るわけで。
どちらかというと世界中には後者の方が圧倒的多数を占める
のでしょうね、サイクロンに蹂躙された国の人達のように。
はたまた、本日7時間ほど前に中国四川省でおきた大地震犠牲者の
ように。
でもそういった人達は意外にも私達の身近にも存在するわけです。
そういう人達が私達も含めて声を上げる道具としてインターネット
の仕組みが存在するわけですが、矮小なものへと追い込まれた、
荒らしやってる人とかウイルス撒き散らしたりする人ってのは、
基本的に見つけて欲しいし、褒めても欲しいんでしょうね。
なんかそういうのって幼児退行的だな。
餓鬼っぽい。
一時流行った”自己責任”とかは、概ね”自己防衛”という言葉と同義語で、
普通にごく当たり前に、生き物としての本能的感知力なのかな。
そういうのが退行しないようにしないと…とつくづく思います。
颱風も近づいてきてるようだし、気をつけないとね。
下北沢にて